時計の病院本院全景

時計修理専門店 時計の病院 会社概要

設立
2003年3月
資本金
300万円
業務内容
時計修理全般
従業員数
11名(2006年3月末現在)
役員
代表取締役 柴田 壽美子
事業所
以下の通りです
本院(本店)
〒064-0809 
札幌市中央区南9条西12丁目1番30号
TEL : 011-518-0117(代表)
FAX : 011-551-0099
札幌分院工房
札幌セントラル店
〒060-0061 
札幌市中央区南1条西3丁目大丸藤井セントラル1F
TEL : 011-242-0117(代表)
FAX : 011-261-1017
町田分院工房
町田東急ハンズ店
〒194-0013 
東京都町田市原町田6丁目4番1号町田東急ツインズ(イースト)6F
TEL : 042-710-1166(代表)
FAX : 042-710-1167
池袋分院工房
池袋東急ハンズ店
〒170-0013 
東京都豊島区東池袋1-28-10東急ハンズ池袋店4F
TEL : 03-5952-9113(代表)

時計修理専門店 時計の病院 会社沿革

  • 1995年3月 時計の病院札幌店開店(長崎屋ビッグオフ札幌店内)
  • 2000年3月 有限会社ハイブリッド・サイエンス・テクノロジー設立
  • 2001年12月 社名を有限会社時計の病院に変更
  • 2001年2月 長崎屋ビッグオフ札幌店閉店に伴い札幌店を閉店
  • 2001年3月 時計の病院町田東急ハンズ店開店
  • 2001年7月 時計の病院札幌平岡ジャスコ開店
  • 2003年2月 時計の病院札幌東急ハンズ店開店
  • 2004年8月 本院工房移転に伴い、本店を開店
  • 2007年7月 時計の病院札幌平岡ジャスコ店閉店
  • 2007年8月 時計の病院札幌セントラル店開店
  • 2007年10月 時計の病院町田東急ハンズ店リニューアル
  • 2009年9月 時計の病院札幌東急ハンズ店閉店
  • 2009年10月 時計の病院池袋東急ハンズ店開店

時計修理専門店 時計の病院 院長略歴

当院自慢の院長の経歴をご紹介させて頂きます。

塞翁が馬な人生

柴田(山邊)紘典氏

昭和14年北海道石狩郡当別町字中小屋にて生まれる。北海道の穀倉地帯のど真ん中である。
昭和14年というと決して日本にとっては明るい年ではなかった。
のちに日米戦争まで繋がる満州でのノモンハン事件が起き、ヨーロッパではドイツがポーランド侵攻を開始し、ドイツ対フランス&イギリスとの間でその後第2次世界大戦に発展する事変が起きた年である。
日米開戦を指示したフランクリン・デラノ・ルーズベルト第32代米大統領はニューディール政策などでも有名だが、意外に知られていないことに、39歳のときに小児麻痺を発症し、人生の後半を車椅子と松葉杖で過ごしている。絶対に記者に立ち姿を撮影させなかったというエピソードがある。
よくネットなどの歴史解説で日露戦争の講和をまとめたセオドア・ルーズベルト第25代米大統領と写真だとかエピソードをごっちゃにして解説しているのを見受けるが、フランクリンはセオドアほどスタイルは悪くないし、俳優ばりにイイ男である。

奇しくもこちらの主人公である柴田氏の時計人生は子供の頃の解熱剤注射が原因で左足が不随になるということを原点として始まる。
今も松葉杖は手放せない生活である。
しかし、人生というのは万事塞翁が馬である。 高校の卒業を間近に控えたある日、6歳年上の兄に連れられて満員の電車に乗せられた、松葉杖でのことである。 思うように電車の中で動けない、とうとう降りるべき駅で降りられないという事態になってしまう。
兄の忠告を痛感した瞬間だった。 兄は氏の身体のことを憂いていた。 大学進学を希望していた氏に、 「大学へ進むということは、サラリーマンになるということだ。」当然朝の通勤ラッシュの電車にも毎日乗らなければならない。 そこでこのエピソードである。
ここで氏は悩んだ末に大学進学を断念し、兄が勧める世界へ向かう決心をする。 自宅に居てもできる仕事ということで、

兄が勧めたのは、時計修理の世界だ。

高校卒業後、当時札幌北24条にあった中川時計店へ就職した。 とうとう天職のスタートラインに立ったのである。

氏は就職後時計修理の技術取得へ励む毎日が続く、生来のきかん気の強さは思う存分発揮され、瞬く間に実力を付けてくる。
意外に転機は早く訪れる。
この中川時計店のご主人・中川一(故人)氏が柴田氏が就職した次の年に時計修理職人の養成することを目的に「北日本時計学校」を開校したのだ。

何と!その新しい時計学校で講師を務めるまでになったのである。
日本が高度経済成長成し遂げ、高価だった時計を皆がするようになり、どんどん増えてゆく時計修理のための技術者を養成することを目的に創設したのである。

1967年(昭和42年)5月には世界でもっとも権威のあるCMW(公認高級時計師)の資格を取得。  CMWってなあに

ついで一級時計修理師の資格も取得してしまう。講師を続けながら研鑽を積み、相次いで最高位の資格を取得してしまう。こういう人が仕事で横にいるとイヤな奴だな、になるのでしょうが、お客として時計を預ける立場としては何とも頼もしい。
まだ塞翁な人生には続きがある。
資格も十分に取得し、研鑽も納得いくものとなった氏の腰はここで落ち着かない。西区に時計宝飾店を開業する。
頃はバブル期、皆がブランド品を持ち歩いていた時期と重なり、みるみる業績を伸ばしてゆく。
しかし、好事魔多し、バブルは崩壊、それまでの勢いは社会情勢とともに薄れてゆきました。
ここで優秀な修理師も決して経営はイコールとはならなかった。様々なことが重なり、あえなく倒産閉店。例外にもれず離婚・家族解散。

氏はここでも生来の負けん気を発揮する。バブル崩壊から僅かに後の1995年に「時計の病院」を開店する。恐ろしく短期間での復活である。
それもただの復活ではない。普通は時計店開店となると時計販売が主体で修理専門店というのはこれまでに前例のない、札幌では当然はじめて、全国でもあまり聞いたことのないことである。時計修理というと下請けが中心だったときに、いきなり時計修理専門店を開く、

ここに氏が修理というものに徹底的にこだわりを持っていることを表す。

確かな技術の裏づけと柔和な顧客対応でどんどん仕事を拡げてゆく。
現在は札幌を初め東京池袋東京町田にも店舗を構え、忙しい毎日を過ごしている。
町田店には同じCMWを取得している長谷川氏がいるが、難しい修理になるとすべて本院の方へ回ってきて、氏みずからオペ(修理)を行う。大学病院のシステムに似ている。柴田氏が常駐する本院の壁にはいつも見たことのない古い掛け時計が所狭しと並んでいる。さしずめ時計の博物館である。

ちなみに確かに時計を修理(手術)するのだから「---病院」はいいのだが、何も店内にまでも脳外科とか整形外科とか看板を出さなくてもいいようなもの。どんなに追い込まれても決して諦めない不撓不屈の精神の持ち主が氏である。そういう激烈な面とこういう表示なんかに氏の柔和でオシャレなジョーク好きの一面を見て取れる。
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